にこいち育児

楽しむ育児を目指すポンコツふたり

ディストピア感半端なかった授乳室 出産の時のこと

妻のくろねこのたんご (id:mimizaru) です。

今日は旦那さんは温泉町から温泉町へ走りきるトレランレースに出かけました。

私も明日は古地図のロゲイニングに生後5ヶ月になりそうな娘と参加します。一緒に旦那さんのお兄さんも連行することにしました。ひとりだと運転中に娘のお世話ができないので、無理やりお願いしました。「鬼嫁」発動です。

夫婦ともに山で遊ぶのが好きなので子供が生まれる前から、山のイベントによく参加していましたが、子供ができたからということで今までの遊びを疎遠になるのもどうなのかなと。親がやりたいことを続けたいと思っています。娘には「あなたがちっさかったからパパとママはやりたいことあきらめたの」とは言いたくない。

 

今日は妊娠中の病院のことを思い出してみようと思います。

私は妊娠したのが43歳、出産44歳といわゆる高齢出産です。それまではバリバリと音がなりそうなくらい仕事ばっかりしておりました。それが42歳で結婚し、不妊治療の末、ひょっこり娘をもうけることになったのです。今まで経験したことのない諸処の事象にちょっとワクワクしておりました。「40年以上も使っていないカラダの機能が働くのか」と思っているうちにお腹は風船のように膨らみ、自分のお腹の中で小さなエイリアンがいるみたいに動いたりするようになりました。当時はお腹が大きいながらも、つわりもほとんどなく、諸処のマイナートラブルはあるものの、ギリギリまでがっつり働いていました。娘は逆子が治らず、出産予定日の2週間まえに帝王切開が決まっておりました。産休にはいってもやり残した仕事を自宅で続ける有様で、そうこうするうちに手術日がきてしまい、アタマはまだばりばり働いているモードのまま出産しました。

 

帝王切開の出産は超あっけない

担当医の先生は自信満々の若い男性で「手術はどれくらいですか?」と聞いたら、「僕だったら5分すね」と言われてちょっと唖然としたのですが、実際に背中から麻酔が入ってからが早かった。麻酔は腰から下の方が痺れているみたいな感覚ですが、意識はしっかりあります。そうこうするうちにお腹を切り出したようで、あっという間に私のお腹の方から何か塊が出てきました。本当に5分ぐらい。あれが私の子!と思っていたら、向こうのほうの台にスッと持っていかれ看護師さんたちに処置をしてもらっているのが見えていました。でも遠くて全然見えません。そして私のお腹の方もまだなにかごそごそやっています。胎盤を取っているようです。娘が見えないので退屈した私は先生たちに「いま何やっているんですか?」と聞くと、「いまお腹の中洗っていますよー」と。じゃばじゃば水音が聞こえます。うわーどうなっているのか見てみたい。娘の処置をしていた看護師さんが先に赤ちゃん連れて行きますね、赤ちゃん見ますか?と娘を連れてきてくれました。初対面の娘と会ったら感動して泣くんじゃないかと思ってたのですが。うん?あれ?えーー。なんかサモアのモアイ像みたいなむくんだ赤ちゃんが目の前に。あれーーーだいぶイメージと違うーー。産後の赤ちゃんはお母さんからおっぱいがよく出ないので3日間分くらいミルクなくてもいいように、生まれてくると言われるのですが、それでむくんでいたのだろうか。いずれにしろ、あっさりと出産は終わりました。

 

出産後の5日間 すごいディストピアな病棟

私が出産した時期はインフルが大流行で家族も病棟に入れないお達しが出ていました。入院中は家族も面会に来れず。(そもそも旦那さんは生まれてすぐ香港へロゲイニングしにでかけていないのですが)

イメージしていた産後というのは、家族がにこやかに赤ちゃんを抱いてたりして、家族の幸せ表徴みたいな雰囲気だったのですが、面会謝絶の病棟は閑散としています。

初日は当たり前だが切腹したお腹が痛い。赤ちゃんのお世話は翌日からということで個室にひとり。4種類の痛み止めを順繰りに入れてもらう。しかし、痛くて一ミリも動けない。

2日目から赤ちゃんのお世話が始まり個室に連れてきてくれた。やっと娘と過ごせる。しかし、私は切腹後で身動きがやたら遅い。生まれたばかりの娘には言い聞かせた「君のママだよ。ここには私と君しかいない。君は生まれたばかりだし、私は切腹直後。それぞれ頼りない状態だ。われわれはチームだ。共に頑張ろう。」

出産後は胎盤がなくなり、カラダはおっぱいを出すように指令が入り始める。最初は初乳という透明なおっぱいが出た。これは免疫がいっぱい入ってるそうで、助産師さんが最初に私のおっぱいを絞り、娘に舐めさせた。いよいよ始めての授乳。娘は生まれたばかりなのにお口をうまくあけて、ちゃんとあごを使って飲もうとしてる。助産師さんに初めてにしてはすごく上手だと褒められる。

おっぱいあげるのも必死。だったはず。恐ろしいことに今から思い出すと記憶が曖昧なってる。授乳は3時間おきに行い、夜中も関係ない。だいたい3時間おきには娘が泣くので、そしたら私は腹部に痛みに耐えながら体をゆっくり起こして授乳する。お世話をしたらシートに記録する。おっぱいがちゃんと出ているのか分からなず不安になり授乳室でおっぱい指導を受ける。そうなのだ。出産後はおっぱいブートキャンプが5日間がっつり行われる。ミルクと母乳の混合で育てることにしたいと思っていたので、おっぱいの後はミルクを40-60ミリあげる。最初は足りなくて泣く娘。どうしたらいいか分からず、娘に聞いてみる「やっぱりおっぱい足りないだよね。ごめんね。助産師さんにミルク下さいって交渉するよ」娘がそうしたまえと言っているようにみえる。

助産師さんにお願いして無事にミルクをもらう。そう、私の入院した病院は特に母乳に力を入れており、母乳スパルタと呼ばれていて、母親はミルクにアクセスできないので毎回助産師にお願いしてもらわなくてはいけないのだ。そうこうするうちに私も毎回授乳の度に娘をコットのカートカゴに入れて、ノロノロとカートを押して授乳室へ向かう。同じような女性がノーメイクのぼさぼさの頭で、分娩で骨盤周りが痛いのか、泣いた赤ちゃんをいれたカートをノロノロと押している。あーこれ、めちゃディストピアだ。

夜中2-3時に授乳室。寝不足で生気を失ったオンナたちが乳丸出しで赤ちゃんに授乳したり、自分のおっぱいを搾乳、絞っている。低体重の赤ちゃんはおっぱいを吸う力が弱いので、お母さんが自らのおっぱいを搾乳して貯めて哺乳瓶で与える。搾乳はつらい。最初はぽた。ぽた。と一滴一滴なので、貯めるのに30-40分以上頑張るのだ。これは完璧にディストピアだ。こんな世界があったのか。

先に出産した人たちが退院していく。いいなあ。あと2日か。。。そのうち、退院のことを出所と呼び、シャバに出たいと言うようになる。

そしていよいよ退院の日。旦那さんにむかえにきてもらう。家族面会謝絶だったので彼は初めて娘に会う。初めてぎこちなく抱っこして彼は嬉しそうに言った。「僕に似てる」。そうね、目とかは旦那さんに似ている。最初は娘はサモアのモアイみたいだったが、むくみが取れると可愛らしい。こうして私はやっと娘を連れてシャバに出れた

 

長くなりました。今日はこのへんで。